2011年12月6日火曜日

多難な年の〆のための改造

 













多難な年の〆に愛機を改造して再生した
今年は本当に多難な年だったとともに、発展の年でもあった。でも、正直ここまで不幸が重なる年も生まれてからなかったように思う。

同時に、ここ数年、私の戦友でもあるMacBookProの調子が悪くなってしまい、思い切って大改造を行った。HDDを取っ払い128GBのSSDに、ディスプレイを新品に、そしてスーパードライブベイに500GBのHDDを搭載した。

多少の不具合はあるものの、劇的に高速マシンとして復活したMacBookPro。オフィスにはiMac27インチ、移動用にはMacBookAir、そして自宅マシンおよびバックアップマシンとしては従来のMacBookProをつかい、合計3台体制になった。MacMiniは自宅マシンというよりメディアサーバー的な形で使っていけないかと考えているところ。もしくはBootCampでWindowsマシンとしてつかっても良いし色々と考えているところだ。

多難な年の最後の〆として、このマシンの大改造を終え、OSX Lionを搭載して新たに生まれ変わったMacBookPro。こいつはぶっ壊れても家宝として取っておきたいと思う。

2011年12月2日金曜日

北京初雪

今朝、自宅のベランダから表を見た様子
昨年は100日以上雨や雪が降らない異常乾燥気候だった北京だが、今年は例年よりは遅いものの、初雪が降った。ここ数日、そろそろ降るかも、といわれていたが、やっと降ったという感じだ。ただ、雪が降ると大渋滞になる北京なので、正直降らないでいてくれる方がうれしいというのが正直なところ。これからどんどん冬本番になっていく北京。ことしはどれだけ気温が下がるのだろう。

2011年10月25日火曜日

今日はもっと寒かった。。。

そら寒いはずだ。予想最低気温より7度もひくい北京の現在の気温。表は凍てつく寒さ。。。この時期は集中暖房もうごいていない時期なので、非常に寒い。。。。北京の家庭は集中暖房が基本的に入るため、一般的にヒーターなどを自宅に置いていないケースが多く、我が家もオイルヒーター1個があるだけの状態。さすがにこれは寒い。。。しかも今日は温水が断水中。。。この寒い中どないせーっちゅーねん。。。羽毛布団引っ張り出してきて厳冬に備えるしかない。

2011年10月24日月曜日

キター! 既に北京は1度。

さむいさむいとおもったら、1度だった。
昨日明け方から午前中に雨が降って、ずいぶんと気温が下がったのだが、どうやら例年よりはやく1度という気温がでてしまったようだ。それにしても寒い。。。。。いきなり毛布を引っ張り出してきてしまった。それに空気が乾燥しまくり。。。今年の冬は寒くなると言われていたが、まさかこんなに早く寒くなってくるとはお思いもよらなかった。ちょっとこたつを準備しなければ乗り切れそうにないくらい寒い。ということで、ウイスキーお湯割りデモのみながら、ゆっくりしたい。

2011年10月14日金曜日

睡眠時間

最近睡眠時間がすごく少ないのだが、わりと元気にバリバリ仕事している。先週一週間も国慶節でお休みということもあって、健康的な生活をしていたからかもしれない。今週は一日平均睡眠時間が3時間〜3時間半という状況ではあるが、先日購入したジューサーでジュースをのんでいるためか、胃腸の具合が非常に良い。なにより、仕事上のストレスを発散するように軽くジョギングしたりこまめに体を動かしていることが功を奏しているかもしれない。

先日お客様とお離しをしていたときに「夢」についていろいろと話をしていた。ずいぶんと長いこと睡眠時に夢を見たことがないので、自分では夢なんて滅多に見ないものなのだろうと思っていたら、ほとんどの人が毎晩夢を見ているという。

科学的には全ての人が夢を見ているそうだが、夢を見ていない人というのは単に夢を覚えていないだけらしい。しかし、他の人の話を聞いていると、追いかけられたり戦ったりと、かなりハードな夢を見るそうで、体がこわばったりし、朝起きたとにぐったりするようなこともあるという。少なくとも私はそうした夢をほとんど見ないので、ある意味幸運かもしれない。

夢は頭の中のデフラグとも言われているそうで、記憶を整理したり、矛盾点を整頓したりする機能があるという。またはストレスで受けたダメージを発散したりするそうなのだが、私も覚えていないだけで、脳内ではおそらく夢を見ているのだろう。たまに見た夢が、南国でハンモックに揺られながら寝ている夢だったり、宝くじが当たった夢だったりと、なんともまぁお気楽な夢なのが多いのだが、切羽詰まっているときでもそんなかんじなので、私にとってはそういうハッピーな夢しか頭の中に残らない体質になっているのかもしれない。

仕事をしているときは夢を持っているのに、寝ているときに夢は見ないというのは、人間とはおもしろいものだと思う。

2011年10月12日水曜日

Xperia Arc LT18i購入

先日発注していたXperia LT18iが届いた。上海にいる親友が愛用しているモデルとおなじなのだが、先日北京に彼が来た際に見せてもらったときに、ある意味ぞっこんになってしまい、実際に購入することにしたマシンだ。

というのも、これまで私は中国移動と中国聯通のそれぞれのSIMを2つのケータイを使ってつかっているのだが、移動向けにモトローラのマイルストーンまたはiPhone3Gをつかっていたのだが、マイルストーンは恐ろしいほどの電池消費量で1日に電池を二回交換しないと追いつかないほどであった。またiPhone3Gはもう完全にハード的にもおかしくなってきてしまっており、どちらにせよ使い物にならなくなってきてしまっていたため、3つの条件をベースに購入を考えていたところに、このマシンが飛び込んできたという具合だ。

3つの条件は「軽くて画面が広い」「電池が持つ」「実用的なケータイ」というものだ。とにかくつかってみた印象としては「電池が持つ」という点に関しては、マイルストーンと比べるのも失礼なほど非常に電池が持つ。昨日昼間に充電もなしに使い始め、今現在まだ6%の電池が残っている。それも相当に使っていてでの話だ。それに、画面が非常に広くて正直iPhoneより使いやすい。そして軽い。かなり軽い。また実用的という点に関しては、今回は香港正規版を使用しているため、すべてが純正で使えるという点が大きい。

HTCのG1から数えて3代目のアンドロイドマシンだが、これほどまでに完成度が高くなっているとは正直思いもよらなかった。またブラビアエンジンを積んでいるためか、画像の描画も非常に繊細かつきれいであるし、目も疲れない。またCPUとGPUが非常に良いバランスになっているのだろうか、とにかく描画が早くて繊細だ。これには本当にたまげた。なおかつ電池が持つのである。これは正直iPhoneよりも使い勝手がよいのではないだろうか。

カメラもHDだし、かなりきれいに写る。加えて豊富なアプリケーションに加えて同期もGoogleベースで非常に簡単である(ちょっとGoogle自体が中国からのアクセスに不安定なのはしょうがないが)。音質もかなりのもので、音楽を普通に聴いてもそこらへんのノートパソコン並以上の音質が出る。これは正直嬉しい誤算だ。まだ届いたばかりで、なおかつ来客があるためなかなかまだ使いこなせていないのが現状だが、徐々にレビューを書いてみたいと思う。

2011年10月7日金曜日

Requiescat in Pace - Steve Jobs

Steve Jobsが逝ってしまった。
実際に見たことはないしあったこともない人だけど、この人のすばらしさは後生語り継がれる人だろうと思う。JobsといえばApple、というくらい切っても切り離せない人物だったが、ここに追悼の意味も込めて、自分とAppleの関わりをまとめてみたい。

初めてApple製品を触ったのは、中学二年生の頃のアメリカへの交換留学の時だった。当時、NYの現地の中学校の教室に置かれていたのがMacintosh IIだった。その中学校は実験中学校的な位置づけだったため、多額の予算が割かれていたのだが、今にして思うとよくぞあんな高級機が教室にあったものだとおもう。直線基調でカラーが表示でき、サクサクと動くMacは強烈な印象を与えてくれたものだった。実際に使ったのは実習時間だけだったので、それほど多くの時間は使っていないが、それでも「アメリカは進んでいる」という印象をものすごく深く印象づけた体験だった。

NeXT Cube
高校に入り、神保町にあるキヤノン01ショップなどにちょこちょこかよって、高嶺の花で当然買えるはずもないMacを見たり、当時最先端だったNeXT Cubeなどを見たり使って、友達同士で稚拙なコンピュータ論議をしたりした。その当時、MacにしろNeXTにしろ、自動車がかえるくらいの金額だった。自宅にはEPSONの98互換機があったのだが、どんなコンピュータであれ、そうした体験ができること自体が本当に嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。

大学入学と同時に購入した9801BX2を購入し(弟がけっこうつかっていたため)そのほか中古のEPSONの286マシンでVZエディタと松茸をつかってレポートを書いていたりというような状況だったが、その後IT雑誌の編集部にて働き出したとき、秋葉原のソフマップで中古のIIciを購入して、自分なりにいろいろと使い倒した記憶が強い。RS422のシリアルポート、オーディオはモノラル22kHzで8ビット、今から思うととんでもなくスペックの低いものだったが、当時ではそれでもまだまだ現役のマシンだった。当時MacといえばADBキーボードだったが、実は今の仕事場のキーボードは未だにADBキーボード(Apple Extended Keyboard II)を使っている。その後、PowerBook150などを使いながら、オーストラリアに旅行にいったり、取材をしたりしたものだった。

NeXT Station
当時Jobsはアップルにいなかったわけだが、当時Jobsが設立したNeXTがリリースしていたNeXTその後、仕事場でNeXT Stepを使うことになり、初めてNeXT Cubeを使用開始し(その後故障)、次にNeXT Stationを使用して、NeXT関連の記事も執筆したりした。当時どのコンピュータにも標準搭載されていなかったCD-ROMドライブを搭載し、夢にまで見たマシンを使えたことの感動は、筆舌に尽くしがたいものがあった。スペックは、売る覚えだがCPUが68030/33MHz、32MBRAMにHDDが330MB、ネットワークインタフェースは、たしか10Base/2、ディスプレイはグレースケールのメガピクセルディスプレイだったと思う。同時にDTPオペレーションの現場から下がってきたQuadra950なども使っていた。ただ、原稿を書くのは一番保守的なDOS環境で書くことを編集部から命じられていたこともあり(当時まだMacなどは執筆中にクラッシュすることなどがあったから)、DOSマシンであるPC9801 DAも併用していた。

大学に入った頃には、NeXTは既にハードウェアの製造から撤退していており、Intel486ベースのAT互換機で走るOPENSTEPが開発され、私のマシンも次第にOPENSTEPに移っていった。このときにNeXTから発表されていたMulti Architecture Binaryは、考えてみたらMacがIntel化してからつい最近まで使われていたUniversal Binaryそのものだったのではないかと思う。そう考えると20年近く前の93年当時に、既にそうしたテクノロジーを持っていたことに驚嘆せざるをえない。実に先進的でマッドだ。

しばらくしてAppleが互換機ライセンスをサードパーティーメーカーと結んで、モトローラやUMAX、パイオニアやAKIAなどから互換機がリリースされ、私もパイオニアのMPC-LX100というマシンを購入していた。理由としては価格がこなれていたこと、純正MacOSが走ることが保証されていること、そして何よりも音がいいからだった。非常に良いマシンだったが、後に記述するJobsのApple復帰によってOS7以上の継続が互換機では保証されなくなってしまい、結局は短期間で売り飛ばしてしまうことになった。

96年ごろ、当時AppleはCoplandという次世代OSの開発を表明していて、PowerPC化している途中だったのだが、待てど暮らせどこれがでてこない。雑誌でいろんな特集を組んだこともあったが、とにかく開発が迷走しまくっており、Appleからも全く魅力的な製品が出てこない状態だった。

BeBOX
そんなときに、元アップルのジャン・ルイ・ガセーが設立したBe社からBeBoxが発売され、同時にUnixベースのBeOSがリリースされた。当時PowerPC603のデュアルCPU搭載のロジックボードで、画期的なOSだったBeOSに、CPUインジケーターが全面についたBeBOXは強烈な印象を一部のマニアに与えた。どうやら当時、680x0系およびPowerPC担当みたいになってしまった私もしばらくレビューを書くことになったのだが、非常にスムーズな動作で、Dockの概念などNeXTに影響されているところもあり、かつそのマルチタスク/マルチスレッドな環境は、未来を感じる強烈なOSだった。今でも紆余曲折を経てHAIKU OSとしてオープンソースとして生き残っている。後で知ることになるが、このBeOSがMacOSの後継OS候補としてApple社とBe社が買収交渉を行っていたのだが、価格が折り合いつかず、Jobsのプレゼンも功を奏してNeXTに軍配が上がったようだった。

そうこうしているうちにNeXTがAppleに買収され、次世代MacOSはNeXTベースになるという話が舞い込んできて(その後、MacOSはOPENSTEPの大部分を受け継ぐ形でMacOSXとなっていった)、97年にJobsが暫定CEOとしてAppleに正式に復帰したのはつい先日のことのように覚えているが、当時はWWCのビデオなどもなかなか視聴できず、編集部におくられてきたダイジェストで内容を知ることが出来るような状態だった。それでも、当時の興奮は本当に忘れられない。同時にMSと提携してIEとOLがMacOSの標準ブラウザ・メーラーになったという衝撃的な出来事も昨日の事のように覚えている。ただ、Jobs復帰の際にAppleの業績回復のためには互換機は悪との結論がくだされ、次期OSはOS7シリーズではなくOS8シリーズと命名されてしまい、強制的に互換機が市場から消されてしまったのは、正直個人的には痛かった。その後、PowerMac7200、初代iMacなどをつかい、この後しばらく業務上の都合の関係でWindowsを使うことが多かったのだが、System9を最後にTigerまでMacはほとんど使わなかった。

2006年3月にMacMini(PPC)を購入して、久々のMacライフに復帰。その後MacBookPro、MacMini(Core2Duo)、MacBook Air(途中にHackingしたMacOSマシンを自作したりMSIのノートパソコンにインストールしていたりしたが)などを使っているが、一度Macに戻ると、仕事でたまに使うことはあっても、Windowsには二度と戻れない体になってしまう。Jobsマジック恐るべしだ。それも、開発に必要な機能は全てそろっており、何も買い足す必要がなく、オープンソースもそろっており、それらが直接ローカルで走る、使いやすくなおかつ直感的な操作感覚で、さらに全てのソフトウエアが連動するため、スムーズな資料作成も可能で、ベクターデータをそのまま扱えるKeyNoteなどもあり、加えてOfficeもあることから、日常業務には全く不便を感じさせず、メリットしかない。TimeMachineで恒常的にバックアップがあるので安心できる。何物にも代えられないメリットづくめだ。今Cocoaと呼ばれているフレームワークは、過去のYellowBoxだったりBlueBoxが名称を変えたモノであり、ずーっと我々はNeXTの系脈を使い続けて現在がある。

ただ、正直に言うとiPhoneは多少疑問を感じる。私もiPhoneを使ってはいるが、クローズドな環境だからこそできることも多々あるのだが、制約が多く、なおかつ不便をかんじることも多々ある。iOS5になってクラウドベースになることが発表されたが、それまではPCと同期しないと出来ない事などが多すぎた感が多々あった。ただ、このiPhoneも、実はJobが過去に設立したNeXTが開発した、現在のMacOSXの原型となっているOPENSTEPのプロセッサに依存しない機能がそのまま残っており、いわばARMむけのOSXのようなもので、そう考えるといま手のひらにあるこのiPhoneも、20年近く前から培われたJobsのテクノロジーが集結していると言っても過言ではない。

全ての製品に対してディレクションを入れ、完璧なまでにこだわり抜き、先進的でありながらそれをクールにまとめて嫌み一つ入れずにきれいにまとめ上げたAppleの製品は、Jobsなくしてはあり得なかっただろうし、ITに関係のない一般の人にまでITを意識させずにITを浸透させたこの功績は、どれだけの讃辞を送っても到底取るに足らないものになるだろう。本当にお疲れ様でした。Requiescat in Pace - Steve Jobs

2011年10月5日水曜日

ジューサー購入

今回購入したパナソニックMJ-PM10
個人的に、果汁100%のジュースが大好きなのだが、一般的に販売されているパック入りのジュースは濃縮果汁還元という方式をとられているため、栄養素などがかなりなくなるという。その中でも果汁に含まれる食物繊維はもとより、自然の酵素なども大幅になくなってしまうことから、ケミカルな製造工程を経てしまうことから、自然本来の機能という意味では激減してしまっているという。

そんな中、パナソニックから新型のジューサーが販売されたと聞き、早速購入してみた。これまでのジューサーは掃除が面倒だったり、絞りきれなかったりと、なかなか無駄がおおいものだったが、これはかなり画期的な構造となっている。洗濯機の脱水機のような構造になっており、遠心力でジュースを絞り出す。またジューサー部分が完全分解可能な使用になっており、フィルターが入っているため、絞りかすなどの掃除もかなり楽にできており、いつでも清潔に保つことができる。また、びっくりしたのが絞りかすの水分の少なさ。これはかなり特筆に値するだろう。とにかく、非常に機能的に作られている。

ためしに手元にあったミカンをジュースにしてみた。絞りたてそのままの味だし、ミカンばかり食べると非常に腹がふくれてしまうが、ジュースにすると多くとれる。また、そのほかにも大根トマトにんじんジュースや、リンゴなしにんじんジュースなどを作ってみたがら、どれも非常に美味。焼酎で割って飲んでもおいしいし、そのまま飲んでもおいしい。朝ご飯にオートミールと合わせてジュースを飲んでもいいし、非常に手軽に健康的な食生活をサポートしてくれる、頼もしい機械だ。

これは今後も重宝しそうな一台だ。

2011年9月25日日曜日

北京首都国際空港ターミナル3出発ターミナルのトイレのドア内側に書いてある文章とは?

「トイレに入ったら、どうぞロックしてください」
先日ソウル出張にいくときにちょっとおなかの具合が悪く、トイレに駆け込んだ。普段は気にしなかったのだが、たまたま目の前に写真のようなプレートが貼り付けられていた。開港当時はこんなプレートはなかったように思うが、改めて見ていると非常に興味深い。

中国ではトイレに入ってもドアを開けっ放しにしていたり、そもそもトイレのドアがないトイレが数多くある。都市部や繁華街ではずいぶんと減ったが、オフィスビルでもトイレのドアを閉めないで用を足しているようなケースは結構あったりする。国際空港において、こうしたことはあってはいけないことだと危惧した空港当局が貼り付けたプレートなのだろう。私も何度も、誰も入っていないと思ってドアを押したら中に人がいたというケースが何度もあるし、国の顔である国際空港では、そうした自体を何としても避けたいというのも頷ける話だ。

さて、このプレート、中国語の文章と英語の文章はちょっとちがっている。中国語の文章では「入厕请您锁好门」となっているが、英語の文章では「Please lock the door for your convenience」となっている。中国語の文章は「トイレには行ったら、どうぞロックして下さい」とそのままダイレクトに書いてあるのだが、おそらく中国語だけ書いてあると、漢字が読めない外国人だと非常に排他的な印象を受けてしまうだろう。そのためか、英語で書いてあるのだが、「あなたの便宜のため、ドアをロックしてください」となってしまっている。

「convenience」という単語はいろんな意味があるが「for convenience」というのは便宜上という形で訳すのが一番しっくりくるだろう。この意味でも、非常に苦労して翻訳しているのだろうと思う。大多数の外国ではトイレのドアは閉めてロックするもの、という概念があるので、わざわざプライバシーのため、などと書いてしまっても違和感があるわけだし、そういう意味ではうまいこと訳しているのかなとも思う。

トイレ一つとっても、いろいろと苦労しているの様子を垣間見た、首都国際空港での出来事だった。

2011年9月23日金曜日

Windows8 Developer Preview

Windows8 Developer Preview ホーム画面
Windows8 Developer Preview をテストマシンにいれてみた。仕事柄、ちまたでいろいろと言われているのとは違う角度で見ているんだろうなとは思うのだが、個人的には、すくなくとも自分の仕事では全然使い物にならないOSだな、と感じてしまった。Windows7でいいんではないだろうか。。。もっというと、自分にはXPで十分という気もする。

そもそも現在はMac使いなのでそれほどWindowsを使うシーンは多くないのだが、以前はWindowsも多用していた。しかし、XPにしろWindows7にしろそうだが、ターミナルもはじめから入っておらず、SSHもつかえないってどういうことなんだろう。。。結局、いろいろとサードパーティーの製品をいれないと最低限の開発環境すらつくれないし、あんまりユーザビリティにとんだOSとはいえなくなってしまったんじゃないかと思う。

また、Windows8に関しては、UIがまたがらっと変わってしまって、正直どこになにがあるのか、なにをどうしたらいいのか、さっぱりわからなくなってしまった。タブレット業界からブーブー文句を言われてしょうがないから作りました感がありありと伝わってくる。

Windowsは別に嫌いではないのだが、タブレットOSとデスクトップOSを同じプラットフォームに無理矢理もってこなくてもよかったんじゃないかとおもう。ロック画面とかかなり無理があるし、ビジネスをするためのOSなのか、という疑問も頭に浮かんでくるようなOSだった。見た目は確かにいいし、グリグリうごくUIもある意味斬新なのだが、保守的な仕事にむいたOSなのかどうかというと、もっというと仕事の効率をアップさせるようなOSなのかどうかというと、個人的には「こりゃつかいものにならんだろ」という感想である。Windows7のほうが、よほどいい出来なのではないかと思った。

2011年9月22日木曜日

ソウル→北京の機上から。

2011年9月13日火曜日

香港・プリンスエドワード付近で食べた牛腩撈麵
香港の麺は結構うまい。細麺でこしがあり、バリカタなみの麺もある。とにかく麺の食感は非常にうまい。

香港出張時の定宿はプリンスエドワードの付近にしているのだが(仕事場に行くのもどこに行くのも便利なため)、その近所に24時間営業している小さな麺屋がある。どうみても気質ではないようなオッサンがやっている麺屋なのだが、非常においしく、特に湯麺よりも撈麵がうまい。私のお気に入りは牛腩撈麵なのだが、ぷりぷりふわふわの牛腩にオイスターソース・ベースのたれがかかり、それを和え麺として食べつつ、スープを飲む。お店にはきんきんに冷やされた新鮮な豆乳も販売されているので、それらものみながら食べると結構なボリュームになる。

香港でもどこでもそうだが、一流レストランでたべるより、こういう炉端で食べる料理の質によって、その国その場所の料理のレベルがわかるような気がする。

2011年9月12日月曜日

寒くなってきた北京

キムチとキノコの豆腐スープ
最近の北京は最高気温は常に30度を下回り、27度前後で推移している。ところが、昨日は最高気温16度、最低気温13度と、かなり寒い日だった。今週後半からは、最低気温が13度台に突入するといっているし(最高気温25度前後)、徐々に秋の訪れを感じる北京だ。

寒くなってきたので、ちょっと暖まるものをとおもい、もらい物のキムチで豆腐キムチスープをつくってみた。作り方はシンプルに、昆布だしのスープにキノコを入れ、冷凍庫にあまっていた豚バラ肉のスライスをいれ、火が通ったらキムチを汁ごと入れ、豆腐を入れ、味の調整にすこし醤油をたらして一煮立ちさせてできあがり。調理時間なんと15分。シンプルだけど寒い季節にはスープものがおいしい。今日はこのほかにキノコのベジタリアンカレーをつくり、玄米ご飯と一緒にいただきました。

といいつつ、スープを飲みながら今年も海に行けなかったことを悔やんでいた。なんだかんだ言って海に行く季節ではなくなってしまった。香港出張時に上空から海をみた以外、一度も海をみないまま、秋になってしまった。。。 ああ、海で泳いでみたい。。。 やっぱ日本人は海洋民族なんだなぁ。。。 本能的に海をみたくなってしまう。

2011年9月3日土曜日

夏も終わり。。。

会社のエリアにある並木も、秋模様になってきた。

北京の最低気温も20度を下回り、17〜18度といった、過ごしやすい天気になってきた。結構からっとした天気の日もあり、最高気温も30度を下回り、28度〜25度となってきている。ようやく秋の訪れだ。今年の北京はどんよりとした湿度の高い天気が多く、夕方〜夜半にかけて、洪水のような雷を伴うスコールのような雨が降る事がおおかった。10月1日から始まる国慶節が終われば、本格的な秋の到来。9月の天気はどうなるのやら。。九月の雨は冷たいのかな。

2011年8月19日金曜日

用事で尖沙咀へ

用事で尖沙咀まで出て来たので、重慶大厦で簡単にインド料理をいただきました。この辺のインド料理は安くて美味いし、手軽なので重宝します。




久々の香港出張

久々に香港出張。到着早々に好物の滑蛋虾仁饭をいただき、これより仕事場へ。



2011年6月14日火曜日

アラレちゃんRAV4

京通快速補路を東から西方面に向かい四恵橋から東四環路北方向に向かう途中で目撃したアラレちゃんRAV4

2011年6月5日日曜日

香港の町並み1

香港・湾仔付近の弊社ヘッドオフィス近所の町並み。
先日出張でいってきた香港の町並み。香港はいつ行っても、イギリス植民地時代からの歴史を彷彿させる建物と香港特有のペンシルビル、そして繁体字中国語と英語が混ざり合い、先進国特有の清潔感と裏町の雑踏が織りなすカオスな雰囲気を味わいながら、B級グルメを楽しめる、非常によい街だ。仕事で行くので、町並みをみている余裕などたいしてないのだが、ちょっと息抜きで写真を撮ってみた。また後日アップしたい。

2011年6月4日土曜日

138,000km

13万8000キロ達成した愛車のトリップメーター
昨年8月に13万キロオーバーを達成したが、今週火曜日に運転中に到達した。最近は移動距離が短いためあんまり距離数が伸びないのだが、それでも結構運転しているんだなぁと実感。最近バタバタ忙しくしているためなかなか更新ができないが、久々に愛車の経過報告まで。

2011年5月21日土曜日

取り壊し中の自宅近所の建物

自宅近所の百子湾路沿いの民家を取り壊し中の作業員。簡単に崩れる。
三週間ほど前に撮影した自宅近所の取り壊し中の民家。百子湾橋にあるTESCOの道の反対側(北側)に存在していた民家。北京のこうした民家は煉瓦造りのところがほとんどであるため、おおきなトンカチでがんがんたたいて取り壊していく。耐震建設などなんのその、非常に簡易な作り方をしているのだが、このあたりに存在していたラーメン屋や自転車屋などのお店も同時にどこかに移転してしまった。このあたりの道を拡張するために取り壊しているものと思うが、それにしてもあっというまに人力で取り壊されてしまうその強度に、改めて驚かされる。

2011年4月27日水曜日

Canon IXY 30s

最近の愛機であるMacBook AirとCanon IXY 30s
MacBook Airを購入してから二日後に入手したCanon IXY 30s。北京で車を運転する関係上、事故などがあったときにすぐに写真を撮れるように日常的にカメラを持ち歩いているのだが、これまで愛機だったLumix LX3は、画質はすばらしくいいのだが、日常持ち歩くにはちょっと大きく、なおかつ嵩張ることがネックだった。それで、コンデジでなおかつスナップも綺麗に撮れ、それでいて値頃なカメラはないだろうかと探していたところ、昨年発売になっていたIXY 30sが該当したので入手してみた。

ここ最近の写真はiPhoneからの写真以外ほとんどこのコンデジで撮影している。それ以外にもメモ用途に撮影したり、いろんな撮影をしているが、これと言って全く不便なく、なおかつ非常にコンパクトなので鞄のなかに放り込んでおけるため、大変気に入ってつかっている。鞄にいつでも入れてあるので、出先の会議でホワイトボードでチャート化した図などをそのままメモ代わりに撮影でき(一応断りを入れるが)、弟のすすめで購入したManfrotto Imagine Moreという、非常にコンパクトな三脚を常時つけっぱなしにしており、どこでもいろんな撮影ができるようにしている。この小さな三脚は非常に使い勝手がよく、かなり気に入っている。

小さくて軽くて使い勝手がよい、というところは、MacBook Airに通じるものがあるが、かつては毎日MacBook Proにデジイチを担いでいたと考えると、ちょっと気合いが足りなくなってきているのかな、と思う今日この頃だ。

2011年4月26日火曜日

MacBook Air

使用開始後一ヶ月半を過ぎた愛機、MacBook Air
正直に言うと、私はこの手の薄型サブノート的なパソコンには一貫して否定的な態度だった。所詮サブノートはサブノート。主戦力にはなり得ない。09年にMSI WindにMacOSXが乗るという噂を聞きつけ、同僚と一緒に購入し、無理矢理MacOSXを入れて、サブノートとして使ってきた。しかし、所詮無理矢理のっけているため、かなりの無理が生じる。普段はCore2Duo環境でMacOSXを動かしているのに、MSI Windは所詮ATOM。パワースペックには天と地の開きがある。それでも、軽い仕事やちょっとした出張にはそれを持って行って重宝していたのだが、一年近くつかってみた結果、冒頭に述べた「主戦力にはなり得ない」と結論づけていた。それほど出張も多くなかったため、漬け物石みたいに重たいMacBook Proで、バリバリ移動先で仕事できる方がよほど快適だと思っていた。

若い頃は、どうせ持つなら重かろうがなんだろうが、スペック重視で購入していたものだが、出張が増え、であることが増えた現在、正直2.5キロもある06Earlyの15インチMacBook Proを毎日持ち歩いたりするのは結構しんどい。また、電池の持ちもかなり悪くなり(既に二回交換)、電池駆動で最低でも3時間くらいはほしいところ。Macユーザーの致命的な点でもある「選択肢の幅の狭さ」を恨みながらも、どうしたものかと考えていたところに、昨年二台目MacBook Airが登場した。

初物は基本的に何かしら問題がある、というハードウェア業界のジンクスにとらわれて、ずっとこれまで購入をためらっていた。 しかし、数が多くなる出張に加えて、自宅と会社、先述のサブノートで環境がぐちゃぐちゃになってきたこともあり、ここらでいっそ、いつも持ち歩けるマシンをベースに構築し直そうかと考えるようになってきた。

候補は二つ。11インチのMacBook Airと13インチのMacBook Air。その中にもSSDが64GB、128GB、256GBとあるのだが、正直どれにするべきか、相当悩みに悩んだ。毎日持ち歩いてメモ代わりに使うのなら11インチ、バリバリ仕事をしながらなおかつ持ち歩くということをベースにするなら13インチ、 でも13インチだと大きすぎないか、11インチだと小さすぎないか、画面の解像度の問題に加えて、いろんな状況をシミュレーションしてみるものの、長い間解決はまったくできなかった。

そうこうしているうちに、どうやらSSDが初期のものとかわって、より高速なSSDに置き換わった、という情報をキャッチ。心が動くものの、実際にどういうシーンが一番使うかと言うことや、現状のMacBook ProはHDDも増強し、なおかついろんなデーターが入っているので、それらすべてを引き継がないにせよ、容量増設ができないSSDに不安を抱えつつ、どのモデルが一番適しているのか、公開しないかをずっと悩んでいた。

親友ともこれらの点でいろいろと考えていたのだが、結果的に落ち着いたモデルとしては、13インチ4GBメモリ256GBSSDモデルだった。個人的には日本語キーボードではなくてUSキーボード派なので、銀座のアップルショップにて直接購入してきた。また、外装がかなり滑るため、Speck 13インチ SeeThru Satin Case for MacBook Air を追加し、外装をプロテクトしている。使用してみたかんじだが、正直自分としては現在考え得る理想のマシンといえるとおもう。

個人的にはこのマシンでCPUに負荷がかかる作業をする予定もつもりもないし、そもそも仕事上そんなにCPUに負荷がかかるような作業もほとんどない。それより、いつでもどこでもさくっと出せて、自分の仕事がバリバリでき、キーボードも気持ちよくタイピングできる、そんなマシンが必要だったのだが、このMacBook Airはまさに私の要求をすべてこなしてくれる。

CPUそのものはそんなに高スペックではないものの、 メモリを結構積んでいること、またAdobe系のソフトを立ち上げまくって、その上膨大な数のタブをブラウザ上で開いて、そのほかにもWordやらExcelやらiPhotoやらを立ち上げまくっていても、SSDだからだろうとはおもうが、ディスクキャッシュのレスポンスがあまりにも速いため、体感速度的にはきわめて速く、待たされたり風車が出てきてイライラすることはほとんどなくなった。正直、メインマシンであるMacBook Proより相当はやい。

また、13インチにはSDカードスロットがついているため、デジカメやら書類やらのデータでも、サクッと読み書きすることができる。最近では64GBなどの大容量SDカードも出回ってきているので、USBHDD代わりにSDカードを使用することができるので、SSDの拡張できないハンディを十分リカバーできることもうれしい。また初代とちがいUSB2.0ポートも2機ついているので、基本的には十分実用に耐えることができると考えている。確かにUSB3.0でもないし、Thunderboltも実装されていないが、正直そこまで高速なスループットが必要な作業は、そもそもCPUに負荷をかけるような作業であるわけで、そういう作業は将来的にiMacなどを購入して、そちらに割り振ればよいかと考えている。開いた瞬間すぐ起き上がるスリープ、電源オフの状態からでも10秒で起動するMacBook Airは、機動性重視、実用性重視という堅実な目的で使う分には、十分過ぎるマシンだと思っている。正直、このマシンは買って正解だった。

2011年4月25日月曜日

最近人気のVANCL

VANCLのパッケージ。かなり丁寧。
最近中国で話題の通販型アパレルブランド「VANCL」で、最近何着か衣服を買ってみた。

VANCLはタオバオで店舗展開をしたり、独自のネット店舗を展開しているが、実店舗はもっていないようで、ネットだけで完結している通販型ブランドと鳴っている。日本だと千趣会とかになるのだろうか。
すばらしいのはそのサービス。オーダーするときも、いつくるのか(大概オーダーした翌日)、モノが最寄りの営業所にない場合、どこから運ぶからいつ来るのか、といったような配達情報の細かさに加え、オーダーした商品のサイズが合わなかったりした場合はすぐに返品や交換に応じてくれる。配達員も大変よく教育されており、クレジットカードをもっていなくても、代引きで対応してくれるため、どんな人でもネットをつかえる環境であれば、すぐに利用できるようになっている。ちなみに、上のパッケージを見ていただければ分かるが、すべての商品をきちんと小分けにビニールパウチにいれて梱包され、内容物を表示するシール、また中には乾燥剤が入っており、南方の湿度の高い都市に配達されても大丈夫なように配慮されている。梱包箱も自社ロゴがはいっており、また梱包も大変丁寧になっている。どこから誰宛に、という情報もさることながら、びっくりした点としては梱包箱の中に担当者の名刺まで入っており、誰の責任で商品を発送したかが一目瞭然となっているのである。

正直、ここまですばらしいサービスを提供している中国のネットショップは初めてだ。これまでにもいろんな商品をネット経由で購入してきたし、これからも利用すると思うが、VANCLの気合いの入り方は尋常ではない。調べてみたところ、VANCLの社長は日本留学組で、帰国後に創業しているようだ。日本を参考として作っていると公言しているそうだが、この中国でここまでのサービスを達成するには並大抵の努力と改善ではできないだろうと思う。そういう意味では本当にすばらしい企業であると感嘆している。

唯一の問題点は、私の着れるサイズがすくなくて、結構小柄な人向けのものがおおいようだ。今回は下着を購入したのだが、どうやら私が購入できるのはそのくらいしかなさそうだ。。シューズもあるし、いろんなアイテムがどんどん充実してきているが、中国を代表する通販アパレルブランドになる日も近いだろう。ちょくちょくチェックして、いいのがあればまた購入したい。そう思わせるショップだ。

2011年4月23日土曜日

我家附近2





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場所:廠坡村街,北京市,中華人民共和国

我家附近




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場所:慶豊閘前街,北京市,中華人民共和国

2011年4月21日木曜日

携帯修理中

閉店間近い百脑汇



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2011年4月18日月曜日

京深海鮮市場

京深海鮮市場の光景。週末の早朝なので、人が少なく買い物しやすい。
朝早くから、北京の南三環路と南四環路の間にある、京深海鮮市場に行ってきた。ここに来るのは久々なのだが、たまには新鮮なエビや貝を食べたいと思い、徹夜明けに無理して行ってきた。上の写真を撮影したのは、朝5時36分。自宅を出発したのが4時50分だったので、まぁまぁ順調にたどり着いた方かともいえる。

エビ、シャコなどの専門店。分野毎に店が分かれている。
中国はどの市場にいってもそうだが(日本もそうだけど)それぞれジャンルごとに店が分かれている。そのため、何件か専門店をはしごして、気に入った食材を購入するため、ある程度交渉などが必要だ。いろんな海産物が購入できるのだが、タラバガニなどは一杯で1000元以上もする。当然業者や高級レストランが仕入れて卸すのだろうが、それにしても一般人には手が出ない金額。そのほかにも、とんでもなくでかい魚やムール貝などなど、数多くの海産物が手に入る。また淡水魚も数多く販売されており、川魚を主体とした中国料理には欠かせない食材なども手に入る。見ていても飽きないのだが、鯖をかいたかったものの、どこにも販売されていなかった。鯖は冷凍食品としてしか流通していないらしい。

基本的に鮮魚が主体なのだが、購入したのは、エビ、毛蟹、ホタテ、ホッキ貝。毛蟹は蒸して、エビは半分は茹でて半分は炒め物に、ホタテも半分は蒸して半分は炒め物に、ホッキ貝は解体後に薄く切ってからムニエルにして食べてみた。大変美味。どれも先ほど届いたばかりというような状態で、貝などは氷付けにして仮死状態にして持ってきているため、しばらくすると生き返ったように活発に動いていたので、なんだか食べるのが申し訳なくなってしまった。といいつつ、すべて感触。

久々に海の幸をこれでもかと食べたので、大満足だったのだが、日常生活においてそれほど海の幸が浸透しているとはいえない北京では、新鮮な生きた食材を捌いて食するとは、かなりのご馳走といえよう。値段も安いし味も絶品。今後はたまに顔を出してみるとしよう。

2011年4月17日日曜日

食欲がない。。。

一般的な中華料理レストランでの食事の後
食欲がない、と書くと語弊があるかもしれないが、実際には食べたいものがあるのに食べられる環境にいない、結果食欲がなくなってしまった、という方が正しいかもしれない。

さっぱりとサラサラたべたい、とか、 胃がもたれすぎず重い料理を食べたい、とか、日本にいるとそれなりにある程度のバリエーションがあり、いろんな料理を食べることができるのだが、ずーっと中国国内にいると、どうしても中華料理ベースで組み立ててしまう食生活となってしまう。中華料理は好きだし、別にそれほど大して苦にならないのだが、普段弁当をとったり、そこらへんの直道で食べている中華料理というのは結構単調な味付けだったり、油が多かったりするので、体調が優れていないときなどはどうしても食べたくなくなってしまう。

また、食堂でたべにいくときは、一人で食べるとすると、本当にちいさい食堂になってしまうし、かといって普通のレストランにいこうとすると、一人で食べきれない(大皿料理が多く、複数種類を頼むと食べきれない)という悪循環に陥ってしまう。そのため、普段は出前で弁当を頼んだり、近所のデニーズ系レストラン「All Day's」、そのほか何件か行きつけの店があるのだが、だいたいそのあたりの店のループとなってしまう。そうなると、冒頭で書いたような「食べたいものがあるのだけど食べられない」状況になる。

最終的にはどうやってこれを解決するか、というと、週末や時間のあるときに自分で作る。これしかない。そのため、日本にいるときはさほど料理しなかった自分だが、こちらに来てからかなり作るようになり、腕もそこそこ上がってきたのではないかと思う。というより趣味が料理になってしまった。

最近牛肉や豚肉より、鶏肉や羊肉が好きで(ただ、日本の牛肉は別)、それらをベースに料理を作ることが多いが、それ以外にもいつの間にかいろんなレパートリーを持つようになった。今日は鶏肉のワイン蒸し、ほうれん草とトマトのスープ、おひたし、玄米ご飯、そして茶碗蒸し。むちゃくちゃな料理に見えるかもしれないけど、食べたいものを集めたらこうなってしまった。個人的には大満足なのだが、やはり日本にいる方から見たらかなり奇異な目で見られてしまうのだろうな。。。

デボネアin北京

寂しげにたたずんでいる二代目デボネア
先日自動車の修理をしているときに、整備工場の近所にひっそりたたずんでいた二代目三菱デボネア。外装の状態は必ずしもいいとはいえないものの、内装の状態はまだまだよく、ちょっと整備すればいつでも走れそうな個体だった。北京に8年間いるものの、デボネアを北京でみたのはこれが始めて。

80年代特有の直線貴重なデザインで、なおかつ日本車らしい演歌調のデザインが非常に気に入った。ナンバーはまだついたままだし、「京C」から始まるナンバーであること、内部に残された駐車証などからみると、どうやら政府機関の車のようだった。ただ、ほこりを結構かぶっており、しばらく洗った後もないことから、廃車寸前ではないかと思われる。

近年北京では古い車に対しての規制が厳しくなってきていることから、このまま廃車にされるのかもしれない。日本でも滅多に見ない車であるし、整備面でもパーツなどの入手も大変そうだが、足回りをきちんと直して、オールペンするだけでも、相当見違える車になりそうなものだ。このまま新しい持ち主の手に渡らず、歯医者を待つだけだとしたら、大変もったいないことだと思う。

2011年4月16日土曜日

ニフティサーブ期間限定復活!

懐かしいニフティサーブが期間限定でWEBにて再現!
大学時代に某雑誌編集部で働いていた頃、名刺には電子メールアドレスなどまだなく、ニフティサーブとPC VANのアドレスを書いていたものだった。それもIT業界系だったからかもしれないが、インターネットが普及してもしばらくは、NIFTYのアドレスは業界では電子メールの標準のような状態だった。そのくらい、NIFTYにはずいぶんと世話になった。

当時は草の根BBSといったような、有志でやっているパソコン通信が結構とあった。テレホーダイの時間になると一斉に混み始め、10回20回ダイアルアップを試みて、やっとつながるような状態だった。掲示板やら情報交換、画像、ソフトウェア、ゲーム等々、いろんな情報が手に入る、いまでいうポータルサイトのようなものだが、テキストだけの世界で織りなす情報の世界に、嬉々としてのめり込んだものだった。
また、海外に行ったときにもずいぶんと重宝した。オーストラリアにいったときは、COMPUSERVE経由でニフティにつなげてメールを確認したりしたものだった。ちょうどWindows95の発売時(英語版発売時)にシドニーにいたため、いち早くWindows95を手に入れたのを昨日のように覚えているが、当時の記事もニフティサーブから送った。本当に世話になったものだ。

そのほか、いまでいうYahooオークションのような形で、個人売買の情報なども活発にニフティサーブ内の掲示板でおこなわれていた。日記サービスなどもあったように思うが、今の時代のように写真あり、装飾あり、といった華やかなスタイルではなかったが、16色しか発色できない世界の中で、基本は今と大して変わらないほどの情報流通が行われていたのだから、たいしたものだったのだなと感慨深くなる。

ニフティサーブ25周年を記念して解説されている再現サイトを使ってみていて、よみがえってくる当時のいろんな記憶を楽しみながら、来る10年後に今を振り返ってみると、どのように見えているのか、大変楽しみでしょうがない。

2011年4月10日日曜日

クラッチ交換およびその他で入院

整備中の愛車Jeep2500(2003年初期型)
13万6000キロオーバーで走り続けている愛車、Jeep2500。38000キロ程度の時に、一度クラッチが駄目になってしまい、クライスラー純正のクラッチに変更してから、これまで10万キロちかく問題なく動いてくれていたのだが、ここに来て急速にクラッチが滑るようになったため、交換を実施。

中国で車を整備に出すとき地番怖いのが、メカニックの仕事の適当さ。これまでもさんざんな目に遭ってきたので、整備の時はなるべく近くに立ち会うか、自分でやったり確認するようにしているのだが、今回はいい腕をもっている整備士に出会うことができた。以前は十八里店にあった整備屋なのだが、引っ越しをして東五環路のほうに店が移った。そのため、多少ましな設備などもそろえており、小規模Jeep専門整備屋としてはかなりまともなほうだ。メカニックも新しいのが入り、いろいろと話をしていて何となく感じるものがあったのだが、腕がかなりよく、安心してまかせられるのが何よりもうれしかった。

2柱リフトも新しい新型になり、ワイドタイプになったようで、結構大きな車でも行けるようになったという。小さい工場ではあるので、人手が足りないというのと、新しいメカニックというのもあって、私もいつものように一緒になって作業をしていたのだが、なかなか楽しいものだ。リフトであげてみてみてみたところ、ほかにも細かいところが結構だめになっており、排気周りで言うと太鼓がだめになりかけているので同時に交換、そのほか前輪左側のラックやらユニバーサルジョイント、ラバーブーツなども交換することにした。

ツルツルになてしまった純正クラッチ
また、昨年シャーシ強化のために鉄補骨を組み込んでいたこともあり、結構いろいろと外さないといけないパーツが多くあったのだが、シャフトをいったん外してギアボックスを下ろして、クラッチを下ろしてプレートをみてみたところ、完全につるつる。なんとかクラッチ圧で持っているような状態だった。まぁ確かにこれだけ乗っていたのだからしょうがないなと思いつつ、新しいクラッチに交換して、再度組み直し。その間に排気周りの交換作業(太鼓〜エンドまで)を行い、無事に終了。その後いったんリフトを低くして、足回りの部品交換作業に入り、結局作業時間は合計で3時間くらいかかった。その前にちょっと待ち時間があったので、整備屋にはいってからは4時間半くらいで終わったかんじだ。その後試運転してみたのだが、再度分かった点としてピニオン部分が結構ガタがきており(前輪左側足回りだけの問題ではなかった)、さすがに結構つかれてしまったので、それらの交換作業は明日おこなうことになった。

これでだいぶ快適に運転を行うことができるようになったのだから、個人的にはかなり満足。新車で買ってから13万6000キロオーバー。あちゃこちゃガタがきて、内装もかなりへたってきているし、内装材のプラがバキバキにわれてきているもの、北京生活開始とほぼ同時に購入し、私の北京生活に密着して働いてくれているJeep2500。20万キロくらいまでは乗りたいとおもう。

2011年3月29日火曜日

空の上から夕暮れ

上空からみた中国の夕暮れ風景
先日出張から帰ってくるときに、上空から夕暮れを眺めていた。息を飲むような美しさだったのだが、デジカメは上のラゲッジケースに入れたままだったので、ケータイで適当に撮影。まだ昼間のように明るいところも中国の上空なのだろうな。

マッサージ勧誘SMS(間違いだらけ)

間違いだらけのマッサージ勧誘SMS
北京では手当たり次第に勧誘SMSなどが来るのだが、会員登録などで使うケータイ番号なども普通に売買されているようで、いろんなSMSが舞い込んでくる。多くは不動産関連だったり違法な領収書だったり訳のわからないキャンペーンだったりするのだが、今回のSMSはあまりにも爆笑してしまったので、少しご紹介する。

中国語バージョンを読むと意味はよくわかるのだが、おそらく機械翻訳をつかって、少し自分で頑張って手直しをしたのではないかと思われる。

"24hours massage center provides door -to-door service, the mechanic excellent, gimmick professional, oil message 280yuan /90minutes up, welcome !telephone number: XXXXXXXXXX"

といったものだ。マッサージにメカニックやらプロフェッショナルなギミックが必要なのか、オイルメッセージとは石油業界からの何らかのメッセージなのか、などなど突込みどころ満載のSMSだ。中国語版を読んでみるとすぐわかるが、ようするに出張オイルマッサージを提供する店の広告宣伝SMSだ。

昨年より北京市の公安局長が交代し、こうした業界は益々規制が厳しくなっているそうで、死活問題になっているのであろうが、そんな事情からか、この手のSMSもずいぶんと増えてきたような気がする。検閲システムをかいくぐるために、いろんな隠語を使ったりするなど知恵を働かせているのであろうが、もうちょっとまともな商売ができないものだろうか。。。正直迷惑極まりない。何はともあれ、せめて英語を使うのであればもう少し勉強してからやっていただきたいものだ。

2011年3月27日日曜日

ずいぶん成長した納米

納豆(左)と納米(右)。ずいぶんと成長したものだ。
今年1月1日から我が家の新しいメンバーとなった「納米」動物保護施設から引きとって里親となって育てているのだが、ずいぶんと大きくなってきたものだ。我が家に来たばかりの頃は、500ミリリットルのペットボトルより小さかった納米だが、いまや1.5リットルのペットボトルよりも大きくなってしまった。ずいぶんとがっしりしてきて、なおかつ健康で元気はつらつとしている。飛び跳ねたりかけっこしたりと、毎日大はしゃぎなのだが、ずいぶんと人見知りする犬であるため、来客時にはとたんに借りてきた猫状態となる。

お転婆ぶりは半端ではないのだが、その分眠くなるとひたすら寝てくれる。我が家にばかりの頃はずいぶんと鳴き癖があったのだが、かんがえてみたら生後一ヶ月たつかたたないかくらいで親から引き離されて我が家に来たのだから仕方なかっただろう。一ヶ月くらいしてからは、まったく鳴かなくなり、我が家の先住犬である納豆の後を毎日追いかけている。

先日には散歩デビューもして、徐々に徐々に外の生活にもなれさせている状態。さみしがりやではあるものの、基本的に人間が大好きなので、教育も大変楽。納豆もよいおもちゃにされているのだが、最近徐々に納豆が犬の世界の躾を教育しはじめており、彼らの間にも上位関係がうまれつつあるようだ。納豆はシュナウザーだが、納米は雑種ということもあり、特徴がつかみにくい面もあったのだが、どうやらモノを取ってくるという習性が納豆よりも強いため、何らかしらの使役犬の血筋が入っているのではないかと思う。

お馬鹿キャラな納豆と対比して割と賢いキャラを演じている納米。そろそろ4ヶ月目にはいるのだが、これまで大して大きな病気もせずに元気に育っているが、1歳を越えるまでは、いつ病気になるかわからない。注意して見守っていきたいと思う。

2011年3月21日月曜日

帰宅途中の道。百子湾路を西から東に向かったところ。

2011年3月19日土曜日

愛車故障中

二ヶ月洗車していない状態の愛車
昨年11月にバッテリーを変えたばかりなのに、バッテリーが上がりまくり状態で、とりあえず近所の修理工場に漏電の可能性があるかどうかを調べてもらいました。その後漏電がないことが発覚し、バッテリーの初期不良交換で交換してもらう交渉に2時間ほど費やし、ようやく替えてもらうことができました。それにしてもどうしてこんなありえないバッテリーを販売するのだろう。。。ちなみに、昨年交換したバッテリーはメーカー品で450元で購入したものでした。

2011年3月18日金曜日

震災中の帰国

月曜日の渋谷スクランブル交差点
今回の東北関東大震災で被災に合われたすべての方に、心よりお見舞い申し上げるとともに、犠牲者の方に哀悼の意を表します。


先端が曲がった東京タワー
本来は、短期間出張で帰国の予定だったはずだったのですが、帰国二日目に地震が発生し、北京へ帰るための飛行機がキャンセルとなり、まるまる一週間の帰国となりました。冒頭の写真は、弟と夜間車で移動した際に撮影した2011年3月14日の夜の渋谷の風景です。真っ暗な渋谷は日曜日の深夜くらいしか見たことはありませんが、節電のため多くの企業が努力を払っている様子が垣間見られ、事の深刻さ改めて知らされました。

いずれ関東には大地震が来るであろうことは多くの学者がかねてより警鐘を鳴らしていましたが、まさか私の帰国時に、しかも地震だけではなく津波、原発といった同時多発的な災害が多数起きるという自体にまで発展するとは、予想だにしていませんでした。未だにショックから立ち直れず、加えて北京に戻ってからも、いまだに余震があるような感覚がしている状態です。

中国の報道機関も連日トップ扱いで日本の報道をおこなっており、また中国のみならず全世界が日本の現状に注目していると思います。特に被災地区にくわえて原発に関する報道が多く、日本の対応を注視している様がよく見て取れます。

私の知り合いという知り合いが心配してくれ、そして私が帰国中だったことを知ると詳しく教えてくれと頼まれ、多くの人が本当に深い関心を示しています。それはただ興味本位、というわけではなく、温家宝首相が記者会見で「感同身受」と述べられたとおり、おなじく地震大国である中国の震災状況とかぶっているのではないかとおもいます。

現在も一層と自体は深刻になっており、北京に帰ってきても母国の情報が様々な形で耳に入り、仕事をしていても全く身に入らない状態です。一刻も早い復興を願ってやみません。

2011年2月17日木曜日

やっと帰ってきた




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Location:Baiziwan Rd,Beijing,China

2011年2月14日月曜日

test entry from iPhone




結構使えるもんだね~
但是打中文更简单。。。

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Location:E.4rd Ring Road Middle Side Rd,Beijing,China

2011年2月10日木曜日

北京初雪!

100日以上降雨・降雪がなかった北京にやっと初雪が降った!
それにしても北京の乾燥は凄まじいもの。先週は春節明けに右中指があまりの乾燥に耐えかねて、すこしひび割れてしまった。クリームを塗ったところで効果があるようなレベルではない。加湿器をガンガンたいても結露しないくらい乾燥してしまっている北京も、ようやくすこしだけ湿潤な空気が入り込むのだろうか。

雨がおおい国に育ったものとしては、雨ほどウザったいものはないと思っていたが、それにしてもこれだけ雨雪がふらないとなると、話は別。改めて降雨降雪のありがたみが体にしみてくるのだが、時期も非常に良くない。ちょうど現在は春節休み明け直後。今日明日あたりからぼちぼち出勤する人もおおいため、休み明け直後のラッシュに加えて初雪とあっては、明日の交通状況は劣悪なものになりそうだ。今日は早く帰って休むに限る。

2011年2月1日火曜日

オランダから届いたJohn's Phone

John's Phone grass  ボタン部分にバックライトを装備している
"The World's Simplest Cell Phone"と名乗っているだけはある、究極のシンプル携帯「John's Phone」が、先日オランダから届いた。正直本当にシンプルで、スマホやガラケーとは次元が違う、機能を盛り込むことを捨てた、アンチスマホなケータイだ。
フォントもきれいで見やすい
電話帳機能やSMS機能まで排除しており、当然ゲームもない。液晶は本体上部に配置されており、非常な情報のみ表示するようになっている(電話番号など)。シンプルを極限にしたもの。中国でもお年寄り向けのケータイで色々とシンプル携帯はでてきているのだが、このJohn's Phoneはシンプルながらもキチンと使いやすいデザインになっている。また紙に書くスタイルの電話帳は背面の扉を開けてアクセスし、スタイラスのようなボールペンが付属している。 なかなかシャレが効いているのに加えて、きちんと実用も考えて作らているケータイだとおもう。なにより、この電話機はSIMロックフリーなので、世界中どこに行っても使えるというのも非常に重宝しそうだ(けど、GSMのみなので日本では使えない)。次回の香港行きのときにも使ってみたいと思う。

制御系は本体左側に配置
通話中の音質も大変よく、音量調整なども可能。また、付属品でイアホンマイクがついており、ひと通り通話に必要なものは全て完結している。 電話を掛けるときは直接番号を押して「hello」ボタンを押す。電話を切るときは「bye」ボタンを押す、といったようなもの。昔の黒電話のような感覚で使うケータイだ。一応10件ほど短縮ダイヤルを設定できるようになっている。正直、よく電話する先などは番号も覚えてしまっているので、いちいち電話帳をさがすより覚えている番号を押したほうが早いので、結構理にかなっているのかもしれない。またプリペイドの番号など最近中国では大変やすく(特に聯通)、通話専用電話として使えばかなり楽。SMS機能がないので、広告やスパムなどのSMSも受信することもないので、快適に使うことができるだろう。

本体背面の電話帳とペン
現状、iPhoneとAndroid(Milestone)をつかっているのだが、複数の動作をおこなっているときなど挙動がおかしくなることもあり、今後このJohn's Phoneを通話専用端末として使おうかと思っている。 機能を絞っていることもあり、また重たい構成部品が少ないためか、大変軽くてなおかつ電池が非常に持つ(先週一度充電したっきり、まだ一度も充電していないが、未だに電池が半分以上ある)。

ボタンが大きくて押しやすく、またボタンにはバックライトが装備されているので、暗いところでも間違えて押すことはなさそうだ。加えて、結構まとにつくりこまれているJohn's Phone、これからしばらく使って、使用感や印象なども時折アップしてみたいと思う。




2011年1月26日水曜日

奥田彰先生ご逝去

高校時代化学を教えていただいた奥田彰先生が亡くなられたと、先ほどMIXIの掲示板でお孫さんからの書き込みを通じて知りました。普段めったにMIXIにログインしないのですが、たまたま目にしたMIXIからのメールを見て母校の掲示板に書き込みがあることを知り、慌ててログインした次第です。あまり急な知らせで動揺しています。。

高校時代、理数系嫌いの私を理数系もいいかも?と思わせたほどの素晴らしい先生で、敬愛する恩師でした。いまから思い返してみると、当時の私には分からなかったことを色々としてくださっていたと思います。私のように出来の悪い生徒にも、こまかいお気遣いを頂いたり、慣れない環境でお仕事されていた(赴任されたばかりだった)にもかかわらず、毎回授業時にはプリントされた先生独自の情報を前生徒に配ったり、本当に頭がさがる思いでした。

放課後にもよく研究室に訪れては、いろんな話をしてくださいました。卒業後、学生をしながら徐々にITの道に進んだのも、少なからず先生の影響があったのではないかと思います。先生に「当たり外れ」があるとするなら、私の通った高校は、理数系の先生はほとんどが外れといわれていたほど、あまり良い先生には当たらなかったのですが、奥田先生は別格でした。その教え方やストンと腹に落ちるかのように飲み込めるよう、細かく噛み砕いて教えてくださった。後にも先にも奥田先生のような教え方の先生には出会ったことがないほど、本当に先生という職業に愛着を持って、常に工夫されている先生でした。素晴らしい先生でした。

長い間お会いできず、一度ご存命の時にお会いさせていただきたかったものの、こんなに早くお別れになるとは考えても降りませんでした。不義理をしてしまったと本当に後悔しています。先生、本当にありがとうございました。心からご冥福をお祈り申し上げます。

2011年1月17日月曜日

タンパク質を食べる

最近ちょっと肉体改造を目指して頑張ってトレーニングしている。というのも、疲れやすかったり血糖値が高かったり(こちらはだいぶ回復した)と、やっぱり座り仕事の関係で結構体に負担がかかってきていることもあり、短期間で体を改造して、心身ともに健康体にならねばと思ったからでだ。中国の荒波の中で仕事をするには、精神力だけではなく体力もかなり重要。そのため、二日に一度の割合で不可をかけた筋トレをおこない、有酸素運動も取り入れて頑張ろうとしていた。

ただ、北京はマイナス10度を超えるくらい寒くなってきている昨今。表で愛犬とジョギングしていたら、凍結した道路に滑って転んでしまい、上腕部を打撲。先週は膝を打ってしまったという状況で、エアロサイクルを購入することを考えているが、ひとまず自宅内でできる有酸素運動ということで、久々にビリーザブートキャンプを少しづつはじめ、筋トレからやることにした。

ただ、筋トレだけがっつりやって、食べるものに気を配らないというのは良くないので、良質なタンパク質を取るように心がけている。昨年、豆乳マシーンを購入して、よく豆乳を飲むので、多めに作りおきして豆乳を飲むように心がけている。また、赤みの羊肉を食べ、鶏肉の胸肉を多く摂取。炭水化物は発芽玄米を食べ、ブロッコリーや豆類、ホウレンソウやきのこ類、そしてチンゲン菜などを多めに食べるようにしている。

脂身の負い肉を美味しいと感じ、腹いっぱい白米を食べるのが幸せな自分にとってみれば、まるで真逆の世界を行くのだが、どうやら30を超えて久しくなってきて、自分の味覚も徐々に変わってきており、焼きナスのごま味噌和えなどが美味しく感じられてきているので、結構低炭水化物食も美味しく感じられている。っていうか、低炭水化物食って、いってみれば日本人が江戸時代から守ってきた食生活をそのまま元に戻しているだけのような気もする。。当時は農民は麦ごはんや粟や稗を食べて、魚や野菜を中心としていた食生活だったはずだ。なおかつ農作業という重労働を人力でやっていた。今もそういった食生活に近い栄養配分の食事を行えば、結構良い線いくんじゃないだろうか。

実践してみればそれが正しいか悪いかわかるはず。自分の体を使って人体実験をしてみたい。今年は人体改造と健康第一をモットーにやっていきたい。

2011年1月12日水曜日

HDDの中身

シーゲートの「Barracuda 7200.12」の中身
シーゲートのBarracuda 7200.12(500GB)が死んでしまった。。。もともとテストマシンで使っていたHDDなのだが、度重なるインストールにも耐え、むちゃくちゃな扱いにも耐え、過酷な環境にも耐え忍んで、此処にHDD生を全うしたのだが、「最近のHDDってどうなってるんだろう?」という単純な好奇心でちょっと分解してみた。完全にぶっ壊れているし(ローレベルフォーマットすら出来ない状態)、特段重要なデータも入っていないので、気ままに分解してみた。

ご存知のとおりHDDのネジは特殊ネジなのだが、我が家には全てのネジの種類を網羅している工具セットがあるため、いとも簡単に開封することができたのだが、昔に比べて構成部品がずいぶんと少なくなったものだなぁと改めて感じる。こんな皿の中に500GBもの容量の情報が入っているのだから、人類の進歩というものはとてつもないものだと感じてしまう。

私が初めてHDDなるものを見たのは、中学校の頃だと思う。当時はSASIの20MBのHDDのだったと思う。その後は40MB、SCSIの100MBと言う形で見て言ったと思う。自宅のEPSON386GEに繋がったSCSIの100MBHDD(緑電子製)のHDDを見たときに「100MBもの大容量を使いこなせるのだろうか」と思ったものだが(当時の換算にしてフロッピー100枚分相当!)、結構な領域を食っていたように思う。それがわずか20年の間に1万倍もの容量を普通に扱うと思っていただろうか。。。いまどき1TのHDDが当たり前になってしまった。。。

そんなこんなで、先ほど好奇心とかいたが、私が久々にHDDを開けてた理由はたったひとつ。どれだけ設計が先進的になったのだろうか、ということを知りたかっただけ。でも開けてみて理解できたのは、HDDという枯れた技術を極限まで効率化したらこうなるのだな、ということだけだった。いまやSSDがもてはやされている時代。でも、自分にとってHDDは夢の大容量デバイスだったころからずっと付き合ってきた古きよき戦友のような物。サーバーなどの中身では、未だに放熱ファンと同じく駆動部品としてしつこく残っている駆動デバイスのひとつだが、そのうち徐々になくなってしまうのかと思うと非常に悲しい物がある。高密度なシリコンプレートは、鏡よりも美しいし、宝石のように輝いている。

人類の知への追求はまだまだ続くであろうし、それによって知の蓄積のためのデバイスとなるHDDも、ドンドン進化していくのだろう。HDDを開けてみて、いろんな思いに浸ったのだが、こんなに感慨深い気持ちになるデバイスもHDD意外にそうそう無いだろうと思う。

2011年1月2日日曜日

新入り「納米」

揺さぶっても起きないほど眠りこけ、元気になった「納米」
拙宅ではミニチュアシュナウザーを2頭飼っていた。オスメスのつがいで、ぞれぞれ「納豆」「納蘭」という名前であった。納蘭は病気がちで2度の出産を経験したのだが、遺伝的な腎臓疾患を患っており、2009年5月に他界した。その後、納豆は男やもめとして一匹で暮らしていた。

納豆は非常に聡明かつお笑い系のキャラで、会社でも結構アイドル的存在であったのだが、このところずいぶんと元気を無くしてきていることもあり、 納蘭が昔使っていたグッズなどの臭を嗅いでいたりすることもおおく、寂しそうにしていることも多かった。

昨年の秋ごろに北京の動物保護施設のことを知り、一度見学にいったことがあったのだが、基本的に捨てられた犬や迷子になっていた犬などを自発的に保護しているおばさんが一人で切り盛りされているところだ。そこには200頭くらいの犬がいて、それぞれ大変人によくなついている犬だ。当然ながら人には向かったり噛むことはないし、無邪気にじゃれあっているといった、そんなところなのだが、日本のシェルターとちがって、なかなか理解者がいないそうで、切り盛りしていくのも大変なのだそうな。最近になって寄付が徐々に集まるようになって、支援者やボランティアも徐々に増えてきているという。

私は仕事も忙しいのでそれほど色々とお手伝いはできないものの、何かできることがあればということで告げていたのだが、元旦に電話がかかってきて、生後一ヶ月くらいのチベタン・スパニエル系の雑種の子犬4匹と母犬が保護施設の門前に置き去りにされていたとのことで、うちメス一匹が虚弱体質ということだった。 おばさん自体は非常に数多い犬の世話もあるため、掛り切りに慣れないということと、病気がちの子犬の飼育経験がある人に頼みたいということで連絡があったのだが、しばし考えた後、まずは引き受けてみようと思い、保護施設に行くことにした。

1月1日元旦早々、西六環の保護施設に行くことに鳴るとは思ってもいなかったのだが、実際にその子犬を見てみると、非常に静かでかなりおとなしい。普通は生後一ヶ月くらいであればかなり元気活発な頃なのだが、たしかに心配になるほど静か。また保護施設は暖房が入っているとは言え、壁に断熱材が入っていない環境では外気温がマイナス10度以下であるとあまり室温も暖かくならず(壁全体が冷房の状態で暖房を掛けても意味が無いのとおなじ)、正直かなり厳しい環境であった。

ひとまず連れてかえってからダンボール箱に湯たんぽをタオルをくるんだものと、ペットシーツを敷き詰めて、簡易の寝床をつくってやり、その後衛生的な環境にするために一旦温水で2度水洗いをし、タオルドライをした後にドライヤーで乾燥させ、ドライシャンプーパウダーを少しだけ掛けて、安静にさせた。また離乳食が始まっているということで、幼犬向けの犬用ミルクとドライペットフードを温水でふやかした物とビタミンとカルシウムパウダーを混ぜたものを与え、きれいな水も飲めるようにしておいた。我が家は温かく、他の犬も納豆一匹なのだが、納豆も全く騒ぐことなく静かに見守っており、揺さぶっても何をしても起きないほど、ぐっすりと眠っていた。

寝ている間に名前を考えたのだが、名前に関しては、「納豆」「納蘭」と「納」続きできたので、今回は「納米(ナーミー)」という名前にした。ナノメートル、という意味の中国語だが、Serverを使っている我々としてはナノテクは非常に恩恵をうけている技術。それにあやかって「納米」と名付けた。

8時間ちかく爆睡してからもぞもぞと起きだし、徐々に元気が出てきたのか、与えたドッグフードも完食し、徐々に元気が出て、少しずつ動いている。体温も相当上昇してきているので、ひとまず安心。毛の量がおおいので結構ふとってみえるのだが、触ってみるとまだまだ細い。もうちょっと食べさせて健康体になるまでは、目が話せそうにもない。しばらくは職場にもつれていって、すこし目をかけないといけないかなとも思っている。

それにしても生まれたばかりの子犬と母犬を同時に捨てていくとは、本当に許せない行為である。中国経済も上向きになってきており、いろんな人がペットを購入している。当然わが子のようにきちんとペットを育てている人も数多くいるが、まだまだ生き物を飼うという自覚がまだまだ薄い人が余りにも多いように思う。これもひとつの成熟度のバロメーターのひとつなのではないだろうか。

2011年1月1日土曜日

年越しそば

もうかれこれ9年くらい、日本で正月を過ごしていない。中国では元旦は日本の「海の日」なみに存在感が薄いので、31日まで正常出勤が普通だが、それもあって今日は夕方くらいまでオフィスで仕事をしていた。帰りに車の中から実家に電話すると紅白歌合戦が始まっているという。久々に父親とも長い時間話をし、色々と話しをしているうちに思い出したのが「年越しそば」。まぁ一応日本人として生まれて、このくらいは食べておこうかなと思い、帰宅したのだが、あいにく蕎麦を切らしてしまっていた。というか、あまりにも年末という雰囲気が全く無いので、蕎麦を買っておくのを忘れてしまった(というか、実家に電話するまで年越しそば自体の存在を忘れていた)。個人的には蕎麦よりうどんが好きだが、血糖値のことを考えてうどんを買い置きしていないもので、家にあった最近発売開始された「日新・拉王(ラ王)」を食べた(このほうが圧倒的に血糖値にはよくないとおもうが。。)。年越し中華そば、といった具合だろうか。

豚骨醤油味のラ王なのだが、味はなかなか美味しいものの、なんかカップラーメンなのにお店で食べるラーメンに必至に近づけようとした努力が見受けられる。なのに「やっぱりカップラーメンだな」というような、中途半端な印象をうける味だった。ただ、これはこれでアリなのかな?とも思える味。個人的にはチキンラーメンやカップヌードル、ペヤングソース焼きそばや出前一丁のように、カップラーメンやインスタントラーメン独自のケミカルな味があっていいとおもうのだが、こうした「本物のラーメンに近づける企業努力」というのは、メーカーにとってみれば、技術革新やコスト圧縮、将来的な技術継承やマーケティングなどなど、いろいろと重要な意味があるのであろう。

年越し中華そばを食べてから、鍋料理などを食べて簡単に食事をおわらせ、パソコンのOSを入れ替えたり、自分向けのテスト環境を作ったりしていた。そんなこんなであっという間に12時を超えて、新年へ。その後、日本に帰省している親友としばしMSNで2011年初チャットをして、意見交換などをしていた。学ぶところも多い有意義な初チャットだった。

日本にいると、師走の忙しさや、クリスマスが終わってから慌ただしく新年に向けた準備で角松やしめ縄などで街が彩られ、迎春モード一色になることもあり、新しい年に変わるときは、多少なりとも厳かな雰囲気になるものだ。だが、ここ中国にいると未だにクリスマスのデコレーションはそこらじゅうに残っていて、おまけに31日まで仕事をしている状況ということもあり、実にあっけなく新年に変わる。その分、旧正月を迎えるときは「これでもか」というくらいド派手になるのだが、自分にとって、やっぱり、家族と一緒に紅白歌合戦をみて、行く年来る年があってこそ、自分の中での「日本の年末年始」なのかもしれない。これは多分、一生変わることがないのだろうと思う。

2010年は本当にあっという間に過ぎ去ってしまった。山あり谷ありとかいうようなレベルではないくらい、ジェットコースター並みに急発進、急ブレーキ、急上昇、急滑降と、色んなことがあり、何度オフィスで夜明けの眩しい太陽を仰いだか分からないくらい、過酷な一年だった。そして、数多くの友人や知り合いが他界されたり帰国した年でもあった。

日中間のビジネスでも色々なタイプが有るとは思うが、我々情報産業に従事しているものとしては、日中間の政治問題に非常に左右されることがあるため、ひたすら外交的な安定を望むのみなのだが、なかなか民間の思惑とはちがい、思うようには行かないもの。また2010年8月に中国におけるインターネット関連規定が大幅に変化したことも、大きな打撃だった。中国経済はたしかに上向きになっているものの、様々な問題をはらんでおり、日本の政治も揺れ動き、加えて尖閣諸島問題があったりと、なかなか思うようにうまくいかないものだ。大シケの海を突き進む小さなボートのような状態であっても、置かれた状況を憂いている暇はなく、かといって闇雲に突っ走らずに潮目をみながら梶を切り続け、基幹事業を守り通してきてた甲斐もあり、ずいぶんと安定してきた。いろいろと貴重な経験を積ませていただき、最終的には、結果オーライといえる一年であったので、ほっとして2011年を迎えることができた。

2011年12月31日に2011年を思い返すときには、いったいどんな年になっているのだろう。 考えても無駄だし、想像だにできないが、頑張って「2010年よりもっと良い年だった」と思い返せるような一年にしていきたいと思う。