2011年1月26日水曜日

奥田彰先生ご逝去

高校時代化学を教えていただいた奥田彰先生が亡くなられたと、先ほどMIXIの掲示板でお孫さんからの書き込みを通じて知りました。普段めったにMIXIにログインしないのですが、たまたま目にしたMIXIからのメールを見て母校の掲示板に書き込みがあることを知り、慌ててログインした次第です。あまり急な知らせで動揺しています。。

高校時代、理数系嫌いの私を理数系もいいかも?と思わせたほどの素晴らしい先生で、敬愛する恩師でした。いまから思い返してみると、当時の私には分からなかったことを色々としてくださっていたと思います。私のように出来の悪い生徒にも、こまかいお気遣いを頂いたり、慣れない環境でお仕事されていた(赴任されたばかりだった)にもかかわらず、毎回授業時にはプリントされた先生独自の情報を前生徒に配ったり、本当に頭がさがる思いでした。

放課後にもよく研究室に訪れては、いろんな話をしてくださいました。卒業後、学生をしながら徐々にITの道に進んだのも、少なからず先生の影響があったのではないかと思います。先生に「当たり外れ」があるとするなら、私の通った高校は、理数系の先生はほとんどが外れといわれていたほど、あまり良い先生には当たらなかったのですが、奥田先生は別格でした。その教え方やストンと腹に落ちるかのように飲み込めるよう、細かく噛み砕いて教えてくださった。後にも先にも奥田先生のような教え方の先生には出会ったことがないほど、本当に先生という職業に愛着を持って、常に工夫されている先生でした。素晴らしい先生でした。

長い間お会いできず、一度ご存命の時にお会いさせていただきたかったものの、こんなに早くお別れになるとは考えても降りませんでした。不義理をしてしまったと本当に後悔しています。先生、本当にありがとうございました。心からご冥福をお祈り申し上げます。

2011年1月17日月曜日

タンパク質を食べる

最近ちょっと肉体改造を目指して頑張ってトレーニングしている。というのも、疲れやすかったり血糖値が高かったり(こちらはだいぶ回復した)と、やっぱり座り仕事の関係で結構体に負担がかかってきていることもあり、短期間で体を改造して、心身ともに健康体にならねばと思ったからでだ。中国の荒波の中で仕事をするには、精神力だけではなく体力もかなり重要。そのため、二日に一度の割合で不可をかけた筋トレをおこない、有酸素運動も取り入れて頑張ろうとしていた。

ただ、北京はマイナス10度を超えるくらい寒くなってきている昨今。表で愛犬とジョギングしていたら、凍結した道路に滑って転んでしまい、上腕部を打撲。先週は膝を打ってしまったという状況で、エアロサイクルを購入することを考えているが、ひとまず自宅内でできる有酸素運動ということで、久々にビリーザブートキャンプを少しづつはじめ、筋トレからやることにした。

ただ、筋トレだけがっつりやって、食べるものに気を配らないというのは良くないので、良質なタンパク質を取るように心がけている。昨年、豆乳マシーンを購入して、よく豆乳を飲むので、多めに作りおきして豆乳を飲むように心がけている。また、赤みの羊肉を食べ、鶏肉の胸肉を多く摂取。炭水化物は発芽玄米を食べ、ブロッコリーや豆類、ホウレンソウやきのこ類、そしてチンゲン菜などを多めに食べるようにしている。

脂身の負い肉を美味しいと感じ、腹いっぱい白米を食べるのが幸せな自分にとってみれば、まるで真逆の世界を行くのだが、どうやら30を超えて久しくなってきて、自分の味覚も徐々に変わってきており、焼きナスのごま味噌和えなどが美味しく感じられてきているので、結構低炭水化物食も美味しく感じられている。っていうか、低炭水化物食って、いってみれば日本人が江戸時代から守ってきた食生活をそのまま元に戻しているだけのような気もする。。当時は農民は麦ごはんや粟や稗を食べて、魚や野菜を中心としていた食生活だったはずだ。なおかつ農作業という重労働を人力でやっていた。今もそういった食生活に近い栄養配分の食事を行えば、結構良い線いくんじゃないだろうか。

実践してみればそれが正しいか悪いかわかるはず。自分の体を使って人体実験をしてみたい。今年は人体改造と健康第一をモットーにやっていきたい。

2011年1月12日水曜日

HDDの中身

シーゲートの「Barracuda 7200.12」の中身
シーゲートのBarracuda 7200.12(500GB)が死んでしまった。。。もともとテストマシンで使っていたHDDなのだが、度重なるインストールにも耐え、むちゃくちゃな扱いにも耐え、過酷な環境にも耐え忍んで、此処にHDD生を全うしたのだが、「最近のHDDってどうなってるんだろう?」という単純な好奇心でちょっと分解してみた。完全にぶっ壊れているし(ローレベルフォーマットすら出来ない状態)、特段重要なデータも入っていないので、気ままに分解してみた。

ご存知のとおりHDDのネジは特殊ネジなのだが、我が家には全てのネジの種類を網羅している工具セットがあるため、いとも簡単に開封することができたのだが、昔に比べて構成部品がずいぶんと少なくなったものだなぁと改めて感じる。こんな皿の中に500GBもの容量の情報が入っているのだから、人類の進歩というものはとてつもないものだと感じてしまう。

私が初めてHDDなるものを見たのは、中学校の頃だと思う。当時はSASIの20MBのHDDのだったと思う。その後は40MB、SCSIの100MBと言う形で見て言ったと思う。自宅のEPSON386GEに繋がったSCSIの100MBHDD(緑電子製)のHDDを見たときに「100MBもの大容量を使いこなせるのだろうか」と思ったものだが(当時の換算にしてフロッピー100枚分相当!)、結構な領域を食っていたように思う。それがわずか20年の間に1万倍もの容量を普通に扱うと思っていただろうか。。。いまどき1TのHDDが当たり前になってしまった。。。

そんなこんなで、先ほど好奇心とかいたが、私が久々にHDDを開けてた理由はたったひとつ。どれだけ設計が先進的になったのだろうか、ということを知りたかっただけ。でも開けてみて理解できたのは、HDDという枯れた技術を極限まで効率化したらこうなるのだな、ということだけだった。いまやSSDがもてはやされている時代。でも、自分にとってHDDは夢の大容量デバイスだったころからずっと付き合ってきた古きよき戦友のような物。サーバーなどの中身では、未だに放熱ファンと同じく駆動部品としてしつこく残っている駆動デバイスのひとつだが、そのうち徐々になくなってしまうのかと思うと非常に悲しい物がある。高密度なシリコンプレートは、鏡よりも美しいし、宝石のように輝いている。

人類の知への追求はまだまだ続くであろうし、それによって知の蓄積のためのデバイスとなるHDDも、ドンドン進化していくのだろう。HDDを開けてみて、いろんな思いに浸ったのだが、こんなに感慨深い気持ちになるデバイスもHDD意外にそうそう無いだろうと思う。

2011年1月2日日曜日

新入り「納米」

揺さぶっても起きないほど眠りこけ、元気になった「納米」
拙宅ではミニチュアシュナウザーを2頭飼っていた。オスメスのつがいで、ぞれぞれ「納豆」「納蘭」という名前であった。納蘭は病気がちで2度の出産を経験したのだが、遺伝的な腎臓疾患を患っており、2009年5月に他界した。その後、納豆は男やもめとして一匹で暮らしていた。

納豆は非常に聡明かつお笑い系のキャラで、会社でも結構アイドル的存在であったのだが、このところずいぶんと元気を無くしてきていることもあり、 納蘭が昔使っていたグッズなどの臭を嗅いでいたりすることもおおく、寂しそうにしていることも多かった。

昨年の秋ごろに北京の動物保護施設のことを知り、一度見学にいったことがあったのだが、基本的に捨てられた犬や迷子になっていた犬などを自発的に保護しているおばさんが一人で切り盛りされているところだ。そこには200頭くらいの犬がいて、それぞれ大変人によくなついている犬だ。当然ながら人には向かったり噛むことはないし、無邪気にじゃれあっているといった、そんなところなのだが、日本のシェルターとちがって、なかなか理解者がいないそうで、切り盛りしていくのも大変なのだそうな。最近になって寄付が徐々に集まるようになって、支援者やボランティアも徐々に増えてきているという。

私は仕事も忙しいのでそれほど色々とお手伝いはできないものの、何かできることがあればということで告げていたのだが、元旦に電話がかかってきて、生後一ヶ月くらいのチベタン・スパニエル系の雑種の子犬4匹と母犬が保護施設の門前に置き去りにされていたとのことで、うちメス一匹が虚弱体質ということだった。 おばさん自体は非常に数多い犬の世話もあるため、掛り切りに慣れないということと、病気がちの子犬の飼育経験がある人に頼みたいということで連絡があったのだが、しばし考えた後、まずは引き受けてみようと思い、保護施設に行くことにした。

1月1日元旦早々、西六環の保護施設に行くことに鳴るとは思ってもいなかったのだが、実際にその子犬を見てみると、非常に静かでかなりおとなしい。普通は生後一ヶ月くらいであればかなり元気活発な頃なのだが、たしかに心配になるほど静か。また保護施設は暖房が入っているとは言え、壁に断熱材が入っていない環境では外気温がマイナス10度以下であるとあまり室温も暖かくならず(壁全体が冷房の状態で暖房を掛けても意味が無いのとおなじ)、正直かなり厳しい環境であった。

ひとまず連れてかえってからダンボール箱に湯たんぽをタオルをくるんだものと、ペットシーツを敷き詰めて、簡易の寝床をつくってやり、その後衛生的な環境にするために一旦温水で2度水洗いをし、タオルドライをした後にドライヤーで乾燥させ、ドライシャンプーパウダーを少しだけ掛けて、安静にさせた。また離乳食が始まっているということで、幼犬向けの犬用ミルクとドライペットフードを温水でふやかした物とビタミンとカルシウムパウダーを混ぜたものを与え、きれいな水も飲めるようにしておいた。我が家は温かく、他の犬も納豆一匹なのだが、納豆も全く騒ぐことなく静かに見守っており、揺さぶっても何をしても起きないほど、ぐっすりと眠っていた。

寝ている間に名前を考えたのだが、名前に関しては、「納豆」「納蘭」と「納」続きできたので、今回は「納米(ナーミー)」という名前にした。ナノメートル、という意味の中国語だが、Serverを使っている我々としてはナノテクは非常に恩恵をうけている技術。それにあやかって「納米」と名付けた。

8時間ちかく爆睡してからもぞもぞと起きだし、徐々に元気が出てきたのか、与えたドッグフードも完食し、徐々に元気が出て、少しずつ動いている。体温も相当上昇してきているので、ひとまず安心。毛の量がおおいので結構ふとってみえるのだが、触ってみるとまだまだ細い。もうちょっと食べさせて健康体になるまでは、目が話せそうにもない。しばらくは職場にもつれていって、すこし目をかけないといけないかなとも思っている。

それにしても生まれたばかりの子犬と母犬を同時に捨てていくとは、本当に許せない行為である。中国経済も上向きになってきており、いろんな人がペットを購入している。当然わが子のようにきちんとペットを育てている人も数多くいるが、まだまだ生き物を飼うという自覚がまだまだ薄い人が余りにも多いように思う。これもひとつの成熟度のバロメーターのひとつなのではないだろうか。

2011年1月1日土曜日

年越しそば

もうかれこれ9年くらい、日本で正月を過ごしていない。中国では元旦は日本の「海の日」なみに存在感が薄いので、31日まで正常出勤が普通だが、それもあって今日は夕方くらいまでオフィスで仕事をしていた。帰りに車の中から実家に電話すると紅白歌合戦が始まっているという。久々に父親とも長い時間話をし、色々と話しをしているうちに思い出したのが「年越しそば」。まぁ一応日本人として生まれて、このくらいは食べておこうかなと思い、帰宅したのだが、あいにく蕎麦を切らしてしまっていた。というか、あまりにも年末という雰囲気が全く無いので、蕎麦を買っておくのを忘れてしまった(というか、実家に電話するまで年越しそば自体の存在を忘れていた)。個人的には蕎麦よりうどんが好きだが、血糖値のことを考えてうどんを買い置きしていないもので、家にあった最近発売開始された「日新・拉王(ラ王)」を食べた(このほうが圧倒的に血糖値にはよくないとおもうが。。)。年越し中華そば、といった具合だろうか。

豚骨醤油味のラ王なのだが、味はなかなか美味しいものの、なんかカップラーメンなのにお店で食べるラーメンに必至に近づけようとした努力が見受けられる。なのに「やっぱりカップラーメンだな」というような、中途半端な印象をうける味だった。ただ、これはこれでアリなのかな?とも思える味。個人的にはチキンラーメンやカップヌードル、ペヤングソース焼きそばや出前一丁のように、カップラーメンやインスタントラーメン独自のケミカルな味があっていいとおもうのだが、こうした「本物のラーメンに近づける企業努力」というのは、メーカーにとってみれば、技術革新やコスト圧縮、将来的な技術継承やマーケティングなどなど、いろいろと重要な意味があるのであろう。

年越し中華そばを食べてから、鍋料理などを食べて簡単に食事をおわらせ、パソコンのOSを入れ替えたり、自分向けのテスト環境を作ったりしていた。そんなこんなであっという間に12時を超えて、新年へ。その後、日本に帰省している親友としばしMSNで2011年初チャットをして、意見交換などをしていた。学ぶところも多い有意義な初チャットだった。

日本にいると、師走の忙しさや、クリスマスが終わってから慌ただしく新年に向けた準備で角松やしめ縄などで街が彩られ、迎春モード一色になることもあり、新しい年に変わるときは、多少なりとも厳かな雰囲気になるものだ。だが、ここ中国にいると未だにクリスマスのデコレーションはそこらじゅうに残っていて、おまけに31日まで仕事をしている状況ということもあり、実にあっけなく新年に変わる。その分、旧正月を迎えるときは「これでもか」というくらいド派手になるのだが、自分にとって、やっぱり、家族と一緒に紅白歌合戦をみて、行く年来る年があってこそ、自分の中での「日本の年末年始」なのかもしれない。これは多分、一生変わることがないのだろうと思う。

2010年は本当にあっという間に過ぎ去ってしまった。山あり谷ありとかいうようなレベルではないくらい、ジェットコースター並みに急発進、急ブレーキ、急上昇、急滑降と、色んなことがあり、何度オフィスで夜明けの眩しい太陽を仰いだか分からないくらい、過酷な一年だった。そして、数多くの友人や知り合いが他界されたり帰国した年でもあった。

日中間のビジネスでも色々なタイプが有るとは思うが、我々情報産業に従事しているものとしては、日中間の政治問題に非常に左右されることがあるため、ひたすら外交的な安定を望むのみなのだが、なかなか民間の思惑とはちがい、思うようには行かないもの。また2010年8月に中国におけるインターネット関連規定が大幅に変化したことも、大きな打撃だった。中国経済はたしかに上向きになっているものの、様々な問題をはらんでおり、日本の政治も揺れ動き、加えて尖閣諸島問題があったりと、なかなか思うようにうまくいかないものだ。大シケの海を突き進む小さなボートのような状態であっても、置かれた状況を憂いている暇はなく、かといって闇雲に突っ走らずに潮目をみながら梶を切り続け、基幹事業を守り通してきてた甲斐もあり、ずいぶんと安定してきた。いろいろと貴重な経験を積ませていただき、最終的には、結果オーライといえる一年であったので、ほっとして2011年を迎えることができた。

2011年12月31日に2011年を思い返すときには、いったいどんな年になっているのだろう。 考えても無駄だし、想像だにできないが、頑張って「2010年よりもっと良い年だった」と思い返せるような一年にしていきたいと思う。