確かに私も普段の日常生活では中国語で行うため、中国語を話すときの自分と日本語を話すときの自分というのが明らかに違うような気がするときがある。たとえば、日本語でタクシーの運転手に行き先を伝えるときの表現方法と中国語で言う時では相当な差異があるし、コミュニケーションの方法もちがう。これはバイリンガルな人なら誰も同じような問題を抱えるそうだが、これこそ言語による考え方の方向性の違いなのではないだろうか。
日本語で考える場合、たとえば「水を買ってきてくれ」といえば、普通にミネラルウォーターになるだろうが、中国では飲む液体であれば、ジュースだろうがお茶だろうが水と表現する。日本語で「そこを右に」と表現するが、北京での中国語会話では「そこを北に」「南に」と方角で表現する。日本語で「何か食べたい」とはいうが「何か物を食べたい」という表現はないだろう。また、特にこれは住んでいる地域にもよるのかもしれないが、日本語で会話している時の100キロメールと、中国で会話している時の100キロメートルは、明らかに距離感が全然違う。中国語だと100キロメートルくらいはそれほど遠く感じないのだが、日本語だと途端に遠く感じる。言語によって同じようなことを考えてたり表現したりしているとは言え、その考えている方向性が違ったり、みえている世界が違うのだろうとおもう。
別に自分は二重人格とは思わないし、意識して見えている世界が違うと感じたことはないが、無意識のうちに、話している言語によって見えている世界が違うかもしれないというのは、大変興味深いことだ。
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